PAY IT FORWARD

私にできる『Pay it Forward』を探して

産まれてきてごめんなさい。

私がここ最近、ずっと神様に祈っている祈り。
それは・・・
「産まれてきてごめんなさい。」



これは神様に向けての祈りと言うよりも
私は両親に対して、「ごめんなさい」と毎日祈ってる。



そんな私に対して、神様の答えがこの1冊の本だった。




私の祈りの発端は
私が小学校6年生の時、
両親が改まって私に向き合いながら
「お前は本来産まれてくるはずではなかった」
そう言われた。


お母さんのお腹に私が宿った時、
お父さんは「産むな」と言い、
産まれてきてほしくないからなのか、
特に理由なくそうしたのか、
母のお腹を蹴ったり、暴力をふるっていたのだとか。



その時の私はというと、
そのことを聞かされて、
「母親ってすごいなぁ!!」と思ったのです。
殴られ、蹴られたりしたにもかかわらず。
私は五体満足、何一つ不自由なく産まれてきた。
母親ってすごいんだなぁ!
(※小学校6年生の子どもが単純に思ったことなので、他意はありません)



単純な私はその時、父を恨むこともなく、
母にはむしろ感謝までしていた。
望まれて生まれてきたわけじゃないと聞かされても、
驚くこともなく、あ、やっぱりそうか。
と納得していたところがあったように思う。



なぜなら
当時の私は何かあるといつも父に殴られ、
母とは生きている時間軸や時空が違うのか、
とにかく気にくわないのか、
何をしても全て否定され、
何を言われても言い返せず、
我慢することばかりを覚えてしまった。



いつも自分を押し殺しているのだけれど、
子どものせいか、その限界がすぐに来てしまう。



そして限界をどう処理していいのかわからず、
爆発させ、両親もきょうだいも驚くような
奇行をしていた。



姉のランドセルを燃やしてしまったり、
いつも私は鼻や耳に問題を抱えていたので
病院に連れて行ってくれる母に
何か面白くないことがあり、
帰りの車に乗らずに歩いて帰ろうとしたり。



とにかくいつも家庭内で問題を起こす存在だった。
更には両親が最も信頼を寄せる人から
性的な虐待を受け、
そのことを誰にも言うことができず、
ひたすら自分はなんて汚い人間なんだと思っていた。
産まれた意味も分からず、
何故誰からも願われていないのに産まれてきてしまったのか。
10代の頃はひたすら死ぬことばかりを考えていた。



そんな私を救ってくれたのが、
今は世の中で叩きにたたかれている旧統一教会



そこで私は必死に求めた。
自分の人生の意味。
願われていないのに産まれてきて、
尚、奴隷のような日々。



必死の祈りに神様は答えてくださり、
私が生まれた理由は両親にあるのではなく、
神様の意思で産まれてきたのだと悟るほどに強烈な
神様との出会いがあった。



そんな強烈な出会いがあったのにも拘らず、
教会の存続の危機の渦にのまれ、
どう生きていけばいいかわからなくなっていた。



そんな中、神様が最近、Youtubeにハマって
動画ばっかり見ている私に、
Youtubeを通して、恵みを与えてくださった。
それがこの本。



教会活動をしている時、本当に思い通りに行かないことばかりだった。
体調不良や性的虐待を子どもの時に受けた影響が今さらになって
PTSDというかたちで襲ってきたが、
その当時そんな奇異な体験をしている人はほとんどいない中、
誰からも理解されず。
「神様が私に願う私の幸せとは何ですか?
あなたが親と言うなら、子どものこんなに苦しんでる姿を見て、
何がうれしいですか?」
と半ばけんか腰の祈りをしていた。



このブンジュ村の人に言わせたら、
自分の喜びの器が満たされていないのに、
常に私たち教会員は人の幸せのためにと走っていた。



枯渇して枯渇して枯れ切った私が今の姿。



そこに自分の幸せはさておき、ために生きてきた私に、
真逆の生き方を伝えるショーゲンさんとブンジュ村の人々。


今度はブンジュ村の教えが私を救ってくれた。
今までの信仰の証とずっと勇気が出せなかった「行動の1歩」を。
この本からもらった勇気で踏み出してみよう。
私の本心が願うこと。
それは私たちの親、神様の話をしたい。
神様ってもっと人間臭くて、
ユーモアがあって。。。。
私が出会ってきた神様を話したい。
このショーゲンさんのように勇気の1歩を踏み出してみます。
大丈夫。私ならできる。


ショーゲンさんの動画もぜひ見てみてください。

霊界。あなたは信じる?~霊界編第1弾 ⓵~

私が最近、そうなんだーー!!と
もし目の前に某番組で使われていた『へぇボタン』があったら
連打したい出会いがありました。


沖縄出身の吉本芸人さん「ヤースー」さんの
YouTubeチャンネル「トクモリザウルス」。
気になる方は下記のリンクから見てみてください。



www.youtube.com
※怖い話などが苦手な人でも見れちゃう♪
私もおどろおどろしい、心霊系が苦手です(;^_^A



何が「へぇ!」なのかと言うと。
霊と会話できてしまう「おばぁ」や幽霊が日常当たり前のように
目の前にいるというヤースー君の話がめっちゃ面白い!

霊界や幽霊ってこれを読んでくれてるあなたは信じますか?

私はどちらかというと信じてる方かもしれない。
見えないので実際のところは何とも言い難いのだけど。



それでもだれしもが霊感って持ってると思う。
実際、私もその部屋に変な霊がいたりすると、
夢見がすごく悪くなるというパターンを持ってる。



霊界の話をいろいろとしている人も多いと思うけど、
私は何と言っても霊界の話で大好きなのは
大母ニムと言って、
家庭連合の韓鶴子夫人のお母さんのお話が大好き。

この方はなんと!お亡くなりになっている方。
そのお亡くなりになった方が、地上にいる方の体を借りて
お話してくださる霊界の話が本当に面白い。
(面白いと言ったらちょっと失礼になっちゃうかもだけど。。。)

家庭連合の中でよくたとえで使われていた映画が
「奇跡の輝き」。
霊界を見てきたのではないか?というくらいよく再現されているのだそう。

自サツした人は霊界では土の中から顔だけ出して埋もれている状態で
描かれている。
ヤースー君の話では自サツした人や事故をした人も、
その現場でその瞬間の出来事を無限ループで繰り返しているのだとか。



どちらの話も・・・
一つの場所に縛られて動けない。
ヤースー君の見ているものに関しては。。。
ずっと苦痛の瞬間を無限ループしてる。。。
※トクモリザウルスの番組内で自サツした人の霊に遭遇した話が出ています。

想像してみてください。
今、私たちが、縛られて埋められてそこから永遠とも思える時間を
動けず、抜け出せず、自由がないとしたら・・・

普通にぞっとします。。。(゚Д゚;)

自サツする人は苦しみから逃れたくて自ら
タヒを選んだにも関わらず。。。
その行為の後も無限ともいえる長い時間ずっーーーーーーーーと
苦しみ続けるという。。。



これを考えると。
私たちはがんばって目の前の課題、問題、苦労を
諦めずに乗り越えることでしか
救いの道はないのかもしれないな。
と思えてきます。



最近は見える人が
「私、見えています。」と公開していることが多くなりましたね。
SNSYouTubeの普及で発信しやすくなって、
自分だけじゃないという安心感からカミングアウトしやすいのかもしれないですね。

これだけ多くの人が見えると言っているのだから
もはや、霊界はないとは言い切れませんよね。



霊界や霊体の成り立ちを説明できてしまうのも
統一原理の面白いところ♪
またの機会に話したいと思います♪

今日の記事が面白いな、と思ってくださった方、
是非是非、読者登録お願いします^^

では次回を!おたのしみに♪

姉ともめました。

姉ともめました。

何でもめたかと言うと・・・

姉は姉の信仰する宗教があって。
私は今は世間を騒がせているかの、旧統一教会に入会していたわけです。

昨年の夏、安倍元首相が打たれた事件以降、
現在の世界平和家庭連合(以降 家庭連合)さんは
ものすごいバッシングに合っているわけなのです。

姉とは信仰のことを含めて、
お互いにいろいろと率直に意見を交わしたり、
話をしたりする仲だったので、
その時もおそらく姉の方からどういうことか
聞きたいだろうと思いながらセンシティブな話題だし、
話を振りにくいだろうな。。。と思って
私の方からわざと話を切り出したりしました。

ただ、この争いの構造として、
ちゃんと真実 対 真実 と言うよりも、
否定批判する側には、純粋な「真実を知りたい」ばかりではなく、
多くの目的が「世界平和家庭連合をつぶしたい」という意図があるので
まともな問題解決の構造がそもそも崩壊していて。

日ごろの報道しか見ていない姉に
何を話しても、私の言葉の力よりも
圧倒的にテレビの力の方が強い。

姉から言われたのは・・・
『間違っていることしていないなら堂々と何をしているのか明らかにすればいいじゃん。』
正直、一番初めに浮かんだ思いは。
「それができたらしてるよ。」

その一言がずっと残っていて。
そこから1年くらいたった時に、姉から言われた言葉が
『家庭連合は間違ってると思う。』
これが姉ともめたこと。

合ってるか、間違ってるか。
そんなことはどうでもよかったんだけど。

信仰を始めた21歳の時、私は家族のだれからも受け入れられていなくて、
ハブにされてて、それでもいろんなことに悩んでて。
その悩みは誰にも相談できないんだろうか?
誰にも聞くことができないまま、墓場にもっていくしかないの???
と苦しんでいた中で、
唯一なんでも話を聞いてくれて、
家族以上に家族のように親身になって私の将来のことを考えてくれて、
私以上に私のことで泣いてくれたり、怒ってくれたりしたのが
家庭連合で一緒に学んだ仲間だった。

その時のことを否定された気持ちになり、
ショックだった。

でも、そのことがきっかけで、この発信をしようと思った。
家庭連合で何度も何度も学んだ統一原理。
私は両親がちょっと変わった人生を歩んでいて、
両親も生きる道を模索している中で、
出会いが悪くて、彼らはある人から洗脳されるようになった。
それを見てきたからこそ、
私は家庭連合の教えを鵜呑みにすることなく、
本当かどうかを検証してきている。

それをこのブログやインスタで発信していってみる。
そうする中でこの世の中に神様が実際にいること、
家庭連合が何を世の中に提起しているのか。

それを知ってもらいたい。
私が苦しんだことと同じことで悩む人がいたら
このブログを通して
救われてほしい。

自分の1歩が誰かの助けになることを願って。。。

【心情の上がり下がり20211215】

最近、歳をとったせいか。。。

脳みそを使うことが多いせいか。。。

朝、起きたら目覚まし1回で起きられなくなった。

 

目覚ましが鳴ってから

しばらくはうつらうつらして、

ぼーっとしてから動き出すことが多くなった。

 

子どもの時は起きると決めた時間よりも前に

パッ!!と起きる派で。

あまり布団の中でうだうだしない方だった。

うだうだするのは好きだが、

比較的、目がパッと覚める方だったのに

最近はなかなか頭がすっきりと目覚めないことが多い。

 

そして、今朝もぼーっとする中で

ふと、昔は・・・という思いがわいてきた。

子どもの時はいちいち、「〇〇しなきゃ・・・」

とか思わなくても気が付いたらやっていたよな・・・

一つ、これ、と決めたことを

何かいろいろとごちゃごちゃ考える前にやっていたよな・・・

 

なんてことを考えていたら、

なんだか今の自分がだめな人間に思えてきて

情けない気持ちに襲われた。

 

朝もパッと起きれず、

時間もだらだらとやり過ごすことが多くなった。

やるべきことから逃げて

何も考えないでぼーっとしていられる時間を

過ごすようになった。

 

だからダメとか

そういうことは違うとわかりながらも。

ふと心に沸くのは。

あーーー私って駄目な奴。。。

 

そんな些細なことで心情を下げたりしながらも。

いつもの1日は始まるので。

 

仕事に行き、

今日もひたすらスケジュールをこなす一日。

 

ただ、数年前と違うのは毎朝、毎晩祭壇に祈祷をささげている。

 

正直、これは私にとってうれしい変化でもある。

 

以前はそれすらも。

やる気が起きないほど、自分のやっていることいろんなことが

無意味に思う時期があった。

心の中で

「すべてに意味があるんだ。」

「自分の行動はすべて自分の選択で決まっているのだから、

たとえ今、やりたくないという気持ちに従って、

”やらない”を選択したとして、その結果が悲惨なものでも。

それをひっくるめて、受け入れる覚悟で決めよう。」

と、その場、その場をなんとかやり過ごしていた数年前。

 

その時から比べたら

誰からも強制されることでもなく。

自分がやりたいからやっている。

続けるのも無理して続けているのではなく。

自分が居心地がいいので続けている。

無理せず、自然と続けられていることが

何よりも心地よく、うれしい。

そして、そんな風に変化したことが本当に

感謝。感謝。感謝。

神様に対して、心の底から『ありがとう』という

気持ちがわいてくる。

 

そんなありがたい習慣も。

時々、『なんか。。。ただ習慣でやってるだけだな。。。』

と思えてくるときもある。

 

でも、この習慣の発端は

祖母が毎朝、歯磨きをするがごとく。

神棚にお水とお米とお茶をお供えして簡単に

頭を下げて終わり。

という姿を見たから。

 

あーー、なんか、信仰って

ちゃんと毎日お祈りできないとだめだとか、

み言を訓読してないから駄目だとか。。。

そういうことじゃないんだな。

神様は親だから、私たち子どもがこうやって

ただ毎日神様の前に頭を下げるだけでも

うれしいのかもしれないな。。。

 

そんな風に思ったことがきっかけで

しばらく祈ることも

祭壇の前に座ることも

何をするのもやめていたのだけれど。

1年ちょっとくらい前から、

朝のご挨拶だけするようになった。

そこから信仰を復活して

祈ったり、訓読したり、書写をするまでになった。

 

この時間は

心が落ち着き、

私の居心地のいい時間。

時間がないときとかも。

端折りたい気持ちも出るが、

一旦座ってしまえば。

やっぱり毎日と同じように祈って、

書写をしたり、訓読をしたり。

 

何のためでもないけれど。

この習慣が自分の心の安定になってるなら、

それでも十分かな、と思いながらやっている。